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浦添城跡・浦添ようどれ

浦添城跡は古琉球三山時代の中山の地、浦添市の東側の丘陵にあります13。世紀末に造営された浦添城は14、世紀には瓦葺の正殿を中心に、石積みの城壁に囲まれた大規模な城に拡大。歴代の中山王たちの拠点であったとされる城跡です。三山が統一されて政権の拠点が首里城に移った後16、世紀には第二尚氏第3代尚真王の長男である尚維衡がこの城に居住。以降、1609年の薩摩侵攻時に焼け落ちるまで、彼の子孫が屋敷を構えていたようです。周囲を鋭く切り立った崖に囲まれた浦添城は、宜野湾や慶良間の島々、首里の町々を見わたせる要塞でした。1945年の沖縄戦では城跡がある丘陵は前田高地とよばれ、日本軍の陣地が置かれて激戦の地に。その戦闘の悲惨さは「ありったけの地獄を一つにまとめた」と表現されるほどでした。浦添ようどれは、城内にある「極楽

陵」といわれる王の墓のこと。「ようどれ」とは琉球の古語で「夕凪」を意味し、静かで穏やかな様子から墓の意味に用いられている言葉です。2室ある横穴墓の西室は13世紀ごろ中山を統一した英祖王の墓といわれ、東室には第二尚氏王統の第7代王であった尚寧王とその一族が葬られています。尚寧王は薩摩藩の侵攻に降伏し、江戸幕府と薩摩藩の支配下に置かれたことに恥入り、王家の陵墓に入らなかったとも伝承。二つの墓室には10基の厨子(蔵骨器)があり、うち4基は福建省産出の輝緑岩で作られていると推定されます。英祖王統は5代90年にわたって中山を統治し、その後を継いで中山王になったのが察度でした。察度は東南アジアとの交易をはじめ、さらには明の洪武帝より派遣された陽載の勧めに応え、朝貢を開始。これを機に、明と琉球の交易路が正式に開かれることになり、後に明への留学生の派遣や久米三十六姓の来琉へとつながっていったのです。

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