カフェテラスで漢詩を

昔から洞庭湖の広大なようすは、良く知られているが、今や岳陽の楼に上って、その湖水をながめている。東の
呉の国と、南の楚の国は、まさにこの湖水によって引き裂かれており、湖面には天地のもろもろの姿が、日夜を問わず浮かんでいる。この地にさまよう私には、親類や友人たちからも一字の便りすらなく、老いて病気がちのこの身には、目の前の粗末な小舟が一隻残されているのみ。都から北の戦地ではまだ戦乱が続き、終わる気配もない。この楼の高みに上り、欄干にもたれてはるか遠くを望むも、ただ悲嘆にくれ、涙がほほを伝うのみ。「詩聖」と称される唐の杜甫(七一二~七七〇)晩年の作。この年、大暦三年の春、杜甫は五十七歳、亡くなる二年ほど前のことだが、何とか都の長安に帰ろうと思い、「老病」の身をおして、夔州(四川省)から舟で長江を下り、どうにか岳陽にたどり着いた。岳陽の楼は、後漢末年に呉の名将魯粛(一七二~二一七)が閲兵をするために「閲軍楼」として建てられたもの。後に損壊、修復を繰り返し、現在の姿(三層、唐代には二層)になった。孟浩然(六八九~七四〇)の名句「気は蒸す雲夢の沢、波は撼がす岳陽の城」(「洞庭に臨む」)でもよく知られた名勝地。杜甫は言う、武漢の黄鶴楼と並んで天下に知られるこの地に一度は来てみたいと思ったが、まさか人生の苦しみの旅の最後にたどり着こうとは。どこまでも続く縹渺たる湖水を望み、長江の広大な流れに身をまかす一枚の枯葉のような「孤舟」。その孤独と悲惨な老境、天下の盛衰と興亡の哀しみを見事に描き切った、万感せまる名作である。

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