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中華文化の発祥地、河南省

中華文化の発祥地、河南省 掲載写真
中華文化の発祥地、河南省

中華文化の始まりといわれる、夏王朝の禹の元に集った人たちは各地に散り、そこはやがて、九つの「州」になり「九州」といわれるようになるのだが、「州」という字は、「川の流れの中に囲まれた地域」という意味。そしてこの九つの州の統治者たちは、始まりの王である禹、もしくはその末裔に対して貢物を始めるのだが、これがいわゆる「朝貢貿易」の始まりだと考えられている。治水事業で多くの人を救った禹ではあるが、なぜ九州の統治者たちは貢物を持ってくるようになったのか。これが、中華文化の始まりの謎の一つである。後に夏王朝は商(殷)王朝に変わり、周王朝に変わっていくが、周王朝が東周時代になると春秋時代が始まり、周王朝に従う各地の諸侯がそれぞれ王を自称し戦国時代になっていく。かつての中華文化圏の王といえば、禹から始まる夏王朝のあった現在の河南省、「豫」の王だったのだが、周王朝の時代から少し変わっていき、中華文化圏の範囲が広がりすぎたこともあってか、やがて周は統治国としての権威を失っていく。戦国時代を経て、中華を再び一つに統べたのは秦王䑮政、彼

が初めて「皇帝」を自称している。皇帝とは、夏王朝の禹より前にいたという統治者、「三皇五帝」の「皇」と「帝」より偉大な存在、という意味の造語だったようだ。確かに三皇五帝の時代よりも、中華文化圏は数倍大きくなっていた。秦王朝の時代から、中華文化圏の統一王朝の統治者は皇帝と称されるようになる。皇帝は「天子」ともいわれるが、天子という表現の方が皇帝より古くから使われていたようだ。これが周王朝の時代(西周時代)から使われていたことは、考古学調査でわかっているのだが、天子とは何か。恐らく、周王朝の始祖である后稷が、天帝の子であるという伝説にも基づいているのだろう。天帝の子である后稷の末裔、周の姫発(後の武王)によって、商王朝の帝辛(紂王)が滅ぼされ、周王朝が成立するのだが、姫発の行いは正しくなかったと「、二十四史」の第一である『史記』の中で暗に語られている。ではなぜ、姫発の行いが正しくなかったとされるのか。これは、中華文化の道理に反したからなのだ。これが、中華文化が征服や支配や革命のような行為によって発祥したものではないという、一つの理由。では、夏王朝の禹は何をしたのだろう?

中華文化の発祥地、河南省 写真 1
誌面実写記録(P.813
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