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天聖寺跡天妃尊

天聖寺は、1707(宝永4)年に水戸の祇園寺三世の蘭山禅師が小川の地に移り、開祖となったのがはじまりの寺。蘭山禅師が88歳で天聖寺の住寺になったときに、徳川光圀公より下賜された天妃尊を持参し、天聖寺に祀ったと伝わります。霞ヶ浦に近いこの地は舟運の要衝であり、光圀公は、天聖寺の前身であった浄賢寺の跡地を取りなして、蘭山禅師の隠棲の地としています。天聖寺は名刹として知られていましたが、1870(明治3)年の出火により焼失。その際、天妃尊は持ち出されて難を逃れましたが、廃寺となったことから、檀家に預けられることに。時を経て、1976(昭和51)年に天聖寺斎場がつくられると、天妃尊が檀家よりもどされ、祠を建てて祭祀。天妃尊と脇立4体は、「木造天妃尊椅像及び四童子立像」として祀られています。

かつての水戸藩は東北地域との境にあり、東北から太平洋まわりで届けられる物資を、安全に幕府に届けるための水路の関所のような地理にある。北の入り口である磯原から、大洗、小川の地理関係は、水路で考えると丁度いい中継点になるのだろう。このポイントに東皐心越がもたらした媽祖像の分祠が、徳川光圀によって祀られることになる。前述したように、すでに海の神への信仰があった日本列島の中で、比較的新しい外来神を祀るというのは本来、いかに藩主によってとはいえ、海の民がすんなり受け入れたとは考えにくい。しかし、この媽祖像は光圀の末裔である徳川斉昭によって取り上げられた際、漁民たちが「天妃神を取り上げられたので魚が捕れなくなった」と陳情したという記録が残されている。これらの媽祖像が置かれていた社は、同じ海の女神であるとして弟橘媛命が祀られるようになったのだが、どの社にも弟橘媛命の像は残されていないという。小川で守り受け継がれたという媽祖像を見て驚いた。この像には、これまでの媽祖像の常識があてはまらない。髪は上で結っているが冠はなく、手は左手だけ見えて笏ではなく軍配をもち、順風耳と千里眼のような従者はいるが、鬼ではない。これこそ、徳川斉昭によって与えられた新たな媽祖像、日本の女神と媽祖信仰が融合した、弟橘媛命の姿をした媽祖像なのではないか。

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