古蜀國の伝承

ある『華陽国志』巻三「蜀志」の記述を意訳抜粋して紹介したい。『華陽国志』は東晋の永11和年(355年)、常璩によって編纂された地誌である。〜蜀の国は人皇の時代から始まって、巴と同じ領域にあり、黄帝の時代には、その子である昌意が蜀山氏の娘を娶って高陽(帝嚳)を生み、その支族が蜀に封じられて、世代を経て侯や伯になっている。蜀は夏・商・周の時代を経て、武王が商の紂王を討つために何を与えたのか。蜀は東に巴、南に越、北に秦、西に峨嶓と接していて、この地は天府と称され、かつては華陽とも呼ばれた豊かな地。『河図括地象』には「岷山の下には井絡があり、帝が㑹昌の神を以て福を建てる」と記され、『夏書』には「岷山が江を導き、東で沱に分かれる」とある。この地の泉源は深く、四瀆の源であり、九つの江に分かれている。多くの宝物や農産物に恵まれ、周の時代には秦と巴に囲まれていて、王の位を持つも『春秋』の同盟には
参加しなかったので、君主や長が同じ経路を辿ることはなかった。周が秩序を失った時、すぐに蜀は王を称している。蜀侯の蚕叢がその目を縦にして、初めて王を称した。蚕叢は死後、石棺石椁で葬られた。国民はこれに従って、石棺石椁を縦目人塚と呼ぶようになる。次に「柏灌」、次に「魚鳬」が王位を継ぎ、その後を継いだ「杜宇」は民を農業に従事させ、「杜主」とも呼ばれている。梁氏の娘を妃にした杜宇は、七国が王を称する中、帝を称して「望帝」と号し、「蒲卑」と改名する。水害に遭った際、相国の「開明」が玉塁山を開いて水害を除いたことから、望帝は政事を開明に委ね、堯と舜の禅譲に習い、帝位を譲って西山に隠れた。その時はちょうど二月で、ホトトギスが鳴いた。故に蜀の人々はホトトギスの鳴き声に悲しむ。巴もまたその教えを受け、農業に力を注いでいた。なので今日に至るまで、巴蜀の民は農作業の始まりに先立ち「杜主君」を祀っている。開明は「叢帝」と号し、息子の「廬帝」が秦を攻めて雍に至り、「保子帝」をもうける。保子帝は青衣を攻め、雄張な獠人と僰人を九つの世家と共に
