蜀の王と帝の年代
星堆文化が再度流入し、全盛期となったのは第三期(殷墟第四期〜西周中期)だ『。華陽国志』の中で、成都に移住したのは開明王を称した保子帝。保子帝が攻めたという青衣という地域は、現在の楽山周辺である。青衣とは、古蜀國の初代王である蚕叢由来の地名なので、蚕叢の出自に関わる地域だったのかもしれない。開明王は祖父の開明帝の祖廟を建てているので、祖父に対する思い入れがとても強かったのだろう。武王克殷によって、商が滅亡したのが紀元前1046年。西周中期となると、紀元前900年頃だろう。この間に何かしらの理由があり、金沙遺跡にいた人たちの文化レベルが最盛期となっている。周の秩序が失われた時に、初めて蚕叢が王
を称したとされているが、周の秩序が失われた時期とは、いつのことなのだろう。これが西周末期の、幽王が殺害されて東周が興り、春秋時代が始まる時期だとしたら、紀元前771年になる。この時はすでに金沙遺跡第五期の時代に入っているので、伝承と出土品の関連