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五代十国と東京開封府

五代十国と東京開封府 掲載写真
五代十国と東京開封府

戦争が終わったとはいえ、民衆の苦しみがすぐに救われることはない。生きるためには食糧がいるし、生活を維持するための資金もいる。もちろん、寝る場所も必要だし、病気になれば薬もいる。そして、未来の希望である次世代の紡ぎ手や、心を支えてくれる何かも必要になっていく。そんな時代において、煬帝が見せた中華の理想とは、何だったのか。先述したように、中華文化とは大いなる「徳」によっての治世のみを「善」としている。そのような時代の中で、煬帝が国家事業により100万人の民衆に与えたのは、強制労働だったのだろうか。女性までも徴発されたことが強調されるが、それほどまでに民衆の生活が、疲弊しきっていたのではないだろうか。隋王朝の時代は、年しか続いていない。隋王朝を受け継いだのは、618年に李淵が建国する唐だ。唐は289年続く王朝だが、正当性の主張は時に、先代の否定が必要な場合がある。それを単純に事実と認識してしまえば、先人の心を踏み躙ってしまう。それゆえ中華文化の心である「徳」を、この文化圏の歴史を見るときは、常に意識してほしい。秦王朝にしても隋王朝にしても、乱れた中華を再び一つにしたこの二つの王朝は、どちらも短命に終わっている。しかし秦に続く漢王朝は、前漢と後漢の時代を合わせ409年。隋に続く唐王朝は289年と、とても長く続く。これは恐らく、戦乱の中での権力のあり方が一つの要因なのだろう。唐が滅び五代十国時代に入ると、中華は再び乱れていく。これが再統一されるのが960年、趙匡胤の宋王朝によってである。宋王朝は中華統一後でも短命に終わらず、北宋と南宋の時代を合わせ318年も続いていく。なぜ趙匡胤の宋王朝は、中華統一後に長く王朝を続けることが出来たのだろう。中国で宋王朝は、「民衆文化の花が開く時代」といわれるほど、民衆に焦点が当たる時代なのである。

開封は河南省東北部の黄河沿いにあって、古代中国の交通と文化の要所でした。南北を結ぶ場所なので、農産物や水産物が豊富で、多様な食材が流通しました。この地の食文化は、黄河の恵みと四季折々の気候を反映し、濃厚で親しみやすい味わいが特徴です。特に北宋時代には、経済と文化の中心地として繁栄し、宮廷料理と民衆の食文化が融合した多彩な料理体系が形成されました。開封の飲食文化は、地理的・歴史的な背景が深く結びついています。黄河流域の肥沃な土壌と豊かな水資源に恵まれ、農産物や魚介類が豊富なこの地では、多様な文化や食材が融合し、独自の料理体系が発展しました。豫菜(河南料理)の中心を成す開封菜は、洗練された宮廷料理と民衆文化の手軽さを兼ね備えた多様性が特徴です。宴席料理の代表「鍋巴三鮮」は、揚げたおこげにエビや鶏肉を使ったとろみソースをかけた贅沢な一品。「金銭鶏巻」は鶏肉で具材を巻き、富の象徴として親しまれています。「灌湯包」は薄い皮にスープを閉じ込めた点心で、その技術と味わいで全国的に知られています。開封料理は、濃厚で親しみやすい味わいと地域の伝統が融合した美食文化の宝庫。この古都を訪れる際には、その奥深い味わいをぜひお楽しみください。

五代十国と東京開封府 写真 1
誌面実写記録(P.4045
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