エピローグ

両国天子の祖

両国天子の祖 掲載写真
両国天子の祖

『隋書』「倭國伝」によれば、「日出處天子致書、日沒處天子無恙云云」と、隋の煬帝に宛てた手紙にしたためたとされる聖徳太子(伯戸豐聰耳皇子)は、日本で最初の女性天皇である推古天皇の甥。そして中国で唯一の女帝である武則天は、推古天皇が崩御される4年前の624年に生まれている。推古天皇が生まれた554年の中国といえば、時は南北朝時代。中華文化発祥地を含む華北を統一していた「北魏」が「東魏」と「西魏」に別れ、北魏官僚を有す東魏の孝静帝(元善見)から「禅譲」を受けた高洋(文宣帝)が「、北斉」を興して間もない頃だ。「北斉」の名は日本の中で、「蘭陵王」高長恭(高洋の甥)の名と共に残されているが、これは聖徳太子と秦河勝によってつくられたという、「面」と「舞」が残されているからだろう。その北斉が年しか続いていないと知ると、驚かれる日本人は少なくない。この時代の日本と中国の繋がりを論じるとなれば、様々な考えが混在しがちだ。少なくとも『日本書紀』によれば、隋(日本書紀には唐と記載される)に遣わされた小野妹子が「蘇因高」という称号を与えられ、後に学問の為に派遣される八名のうち「漢人」が六人。その頭目と考えられる「漢直」と、通訳と考えられる「訳語」が一人ずつ記録されている。『日本書紀』による隋の煬帝に対しての手紙の書き始めは、「東天皇敬白西皇帝」なのだが、『隋書』と違う書き始めだけでなく、武則天が作った称号である「天皇」を、なぜ聖徳太子が書にしたためたというのか。この理由を、『魏書』の記述と武則天の存在を加味した上で、考えていくとしよう。

歴史とは、系統継承者を示す「歴」と、時勢の変遷をしるす記録である「史」を合わせた言葉。「国の歴史」といえば、国の統治者と時勢の変遷をしるした記録なのである。先に『隋書』と『日本書紀』の記述の違いを述べたが、『日本書紀』は日本の「六国史」の第一とはいえ、720年に完成するまでの時代背景を、まずは理解してほしい。712年に完成した『古事記』を含め、『日本書紀』は「記紀」といわれることもあるが、そもそも『古事記』が出来た背景は、戦争によってこの国の「帝紀」と「旧事」が散逸していたからである。散逸した「帝紀」と「旧事」を稗田阿礼が集め、一つの流れとして暗唱した言葉を記録したのが三巻の『古事記』。これだけでは情報が足りないので、当時倭國が支配していた国や、協力国などにそれぞれの地域的特徴や伝承をまとめた「風土記」を編纂する詔が出されたのが713年。多くの地域の風土記を

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誌面実写記録(P.5466
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