エピローグ

南海の女王

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南海の女王

不思議なことに現在そこにいる人たちの性質が、古代の同じ地域にいた人たちの性質と、さほど変わらないことがある。世界中でビジネスを進める多くの華僑の中で、福建と台湾を故郷にしている人が多いのは、そのような性質が受け継がれたからなのだろうか。飛行機で簡単に外国に行ける時代になり、国境を越えることが難しくなくなった現代でも、そのような性質は受け継がれていくのか。飛行機が開発されてまだ、100年ほどしか経っていない。もっと先の時代までこの社会が続いていけば、この性質は変わっていくのかもしれない。それは現代日本の祭りなどの風習や、伝統産業の形が急激に変わりつつあることからも想像できる。変わりきった後では、わかりようがないことがあるというのに。変化が起きて、一つになってしまう文化が多すぎるように感じている。僕たち人間の文化は、異なる文化が無数にあったからこそ、高め合うことができたはずだ。その事実を、中国の多元文化共生社会を知るたび思い知る。南海を越えた交流の歴史は、きっと先史時代からあったのだろう。中国「二十四史」の『三国志』と『隋書』、日本「六国史」の『日本書紀』の記述をもとに、日本国内だけでは答えが出ないはずの、「邪馬壹國の卑彌呼」について考えていきたい。

日本の中で、多くの関心を集める古代の謎は何かと考えると、「卑彌呼のいた邪馬壹國は、結局どこにあったのか?」という謎が、僕としては初めに上がる「。女神信仰と九州北部」特集号の中で、邪馬壹國が台湾島にあった可能性を説明していて、その時の図が右頁下のもの。この行程の中の、日本列島の国々の位置は全て、「一之宮」の場所だ。邪馬壹國が台湾島にあった可能性と、そこに使者を送った理由は、『三国志』時代の「魏」であれば、敵対していた「呉」の内情を知るため、最も近い地域に間者を送ったはずという、地政学の視点から。当時の魏と呉を地政学的に考え、里数計算が「短里」であることについては、案内役であったはずの航海に長けた技術者の報告をもとに記述したので、断定できなかったのではないかと説いている。これは、現在でも大工が「寸」や「尺」で測るのと同様に、技術者の性質を考えてのこと。卑彌呼の名は『三国志』の『魏志』の最後の記述に載ってい

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誌面実写記録(P.7282
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